大相撲の本場所の通称(初場所、夏場所、秋場所の由来、春場所の由来、九州場所の由来)
平成二十九年大相撲一月場所で幕内最高優勝を飾った東大関稀勢の里、場所後第72代
横綱に推挙、昇進し、かなりのフィーバーぶりで大相撲三月場所に突入。初日から
連勝と相撲人気を活気つけてくれている。
大相撲観戦をし始めてひとつ気付いたことがある。本場所中、場内アナウンスなどでは
「○月場所」と放送。チケットなどの印刷物の興行名も「大相撲○月場所」だが新聞、
マスコミを始め一般に通用しているのは、季語もしくは地方都市名をいれた場所名。
あれなんでだろうといろいろな知恵袋サイトをのぞきにいったことがある。
大相撲七月場所だけは日本相撲協会と中日新聞社が共催しており、興行名、チケット
チラシ、木戸まですべて「大相撲名古屋場所」と統一されている。
確かにこれはこれで納得なのだが、じゃあなんで三月場所は大阪場所でなく春場所と
呼称するのか?とか福岡で開催しているのに九州場所と呼称するのかよくわからず?
かといって、国技館の本場所初日に優勝額掲示の際は「東京場所」とか「大阪場所」
と毎日新聞社は言うしね???
おおよそ季語を使う場合(春、夏、秋)と地方名(名古屋、九州)に大別できるから、この
あたりが落とし所かな?と思ってみたら、ある共通点が。季語をつかった場所名は必ず
東京場所で一度は開催されており、年間二場所時代は長く春場所=一月、夏場所=五月
だったことが判明。春場所って季節の春ではなく正月の初春のことだったのね。と。
ところが戦時中に常設興行施設の(旧)両国国技館が軍に接収、戦後は米国進駐軍接収
のため常設施設を奪われ、全天候型の施設が使えず、後楽園球場、明治神宮外苑相撲場
などの晴天興行にならざるを得なかったため春場所=一月は興行できず。ああ納得。
晴天興行だったら観客も寒いが、力士もさすがに寒く凍えてしまうがな(+o+)
そこで昭和初期に一時開催月を 9月~11月 として場所興行の実績があったから、一月
は興行せず、秋口開催として=秋場所としたんだね。
そして、戦後大阪にも難波に仮設国技館(現在の大阪府立体育会館)で初期の頃は九月に
そのため通称秋場所(今の感覚だったら、大阪で秋場所というとすごい違和感があるが)
大阪府立体育会館が竣工後は春場所=三月場所として開催。今まで春場所=一月場所で
あったのを少し工夫して「初場所」(おそらく初春の意)と言ったのだろう。
これで共催だった七月を含め、一月~九月までの本場所の呼称は説明がついた。残るは
九州場所だけだなと。でも九州場所の呼称の由来はどうしても見つからず。そしたら
個人の方のブログに九州場所の名付け親(福岡の実業家・木曽重義氏)の存在が記事に。
九州場所は最初福岡スポーツセンター(天神駅の近く、ソラリアプラザ)、つまり西鉄へ
の売り興行だったんだ(・o・)共催ではなく福岡スポーツセンターが主催なら興行名は
「九州場所」になるなぁ。後年日本相撲協会は売り興行から主催、せめて名古屋のよう
に共催にと福岡スポーツセンターを説得したが決裂。九電記念体育館へ開催場所を
移して日本相撲協会主催の「十一月場所」にしたんだなぁ。元大関貴ノ花に 1970年の
九州場所で福岡スポーツセンター賞を社長賞として贈与していたらしい。
こんなところで西鉄の名前が出てくるとゎ。
その後九電記念体育館 → 福岡国際センターに開催場所を移し現在も九州場所を開催。